ひんやりとした風が火照った頬をなでる。
一杯の麦酒に渇きは癒え、強張った心すらほぐれる。
オー・ド・ヴィ、生命の水。
大地の恵みと酵母の力、酒の神バッカスに感謝を捧げ、風の行く先を眺める。
空には欠け始めた月が輝き、そいつに照らされながらゆらゆらと眠る街をさまよう。
要するに、
十六夜にただ酔ひながら漂ってゐる
ってえ寸法だ、べらぼうめ。
サングラス、真っ黒なスーツ、真っ黒な靴、
黒づくめの男たちは、人知れずこの世界を危機から救うために選ばれる。
戦いは過酷で、果てしない。
どれだけ傷つき疲れ果てても、誰かになぐさめてもらうこともできない。
Men In Blackは、その存在を知られてはならないのだ。
この地球を守り、破滅から世界を救っても、
彼らの活躍は誰にも知られることはない。
戦いに倒れ、命を落としても、弔いの言葉すらないまま
歴史の陰に葬られてしまう。
彼らのおかげで危機からこの世が救われたのも気づかぬまま、人々は安穏と暮らしていく。
こんなシーンがある。
巨大な異星人が襲いかかる。
銃を取り出し、敵に攻撃を仕掛けなければやられてしまう。
が、ベテランエージェントは体がすくんで動けない。
異星人が大きな口をあけ、ベテランエージェントは慌てて銃を取り出そうとする。
スーツのあちこちを探すが、もたついてうまく銃が取り出せない。
相棒の調子がおかしいことに若手エージェントが気づき、
自分の銃で異星人を撃つ。
間一髪。
腰が抜けて立てなくなった老エージェントは、その時に悟る。
異星人追跡の、戦場から去るべき時が来たのを。
戦いで、神経は磨り減り、体はぼろぼろだ。
これ以上戦いの現場にいるべきではない。
若さを使い果たし、反射神経の鈍くなった自分は
いつか致命的なミスをおかすだろう。
そうなる前に、自ら身を引くべきなのだ。
老エージェントと相棒の若手はサボテンのそばに腰を下ろす。
「すまない.....」
老エージェントが言う。
「こんなミスを.....」
男たちは多くを語らない。
星を見上げ、老エージェントが言う。
「.....美しいな」
若手が訊く。
「星だよ。奴らの、星だ。
寂しいな、奴らの追跡も、今日が最後だ。」
老エージェントが答える。
「.....大丈夫だ。」
相棒は言う。
「全て忘れてしまうのだから。」
そう言って彼は
老エージェントの記憶を抹消する機械の、スイッチを押した。
ことだろう。
過去を捨て、誰にも知られずに、自分の生涯の全てを捧げ続けた
過酷で孤独な戦いの記憶すら、保持することを許されないとは。
MIBの秘密を保つために、彼の数十年は、無となる。
機密保持のため、全てをかけて戦って来た数十年が無に帰す運命すらも、
だまって静かに受け入れる老エージェントの覚悟の崇高さに
ぼくは心を打たれる。
意識を戻す。
現実の世界にも、誰にも知られず、この世を救っている者がきっといる。
ぼくらの知らないこの世のどこかで、
世界を破滅から救っている誰かが必ず居るはずだ。
そんな誰かは、誰にも気付かれないまま、世界のネジを巻きなおし、狂った歯車を修正する。
ほころんだ世界の縫い目を繕い、世界という名のプログラムを毎日毎日デバッグする。
救いようがなくどうしようもないこの世界は、幸いにして今日も滅びずにすんだ。
言葉を変えれば、どこかの誰かが破滅のふちから世界を救ったということだ。
隠れた英雄、決して知られることのない、この世の無名の救い主。
もしかしたら、そんな誰かは意外に身近な所に居るんじゃないだろうか。