ここは以前別の名前だったのだが
一度足を踏み入れたら二度とは出てこられないことから改名したという。
実際に訪れてみると、鬱蒼と草木が生い茂り、昼間だというのに薄暗く、
全く方向がわからない。
慌てて持参したコンパスを取り出すが、針がふらふらと動いて一定しない。
土壌が金属を含んでいるらしく、磁場が狂っているのだ。
地図も頼りにならず、途方に暮れてしまう。
背の丈よりも高く生えた名も知らぬ草をかきわけ進む。
コツンと音がして、足元に固いものが触れる。
ぼくは言葉にならない叫び声を上げた。
である。
白骨は前のめりに倒れており、一歩でも前に進もうとした意思を感じた。
前に伸びた右腕の先には青樹が原デンタルクリニックの診察券が握られており、
宮武という苗字が辛うじて読み取れる。
折り曲げられた左手はしっかりと左の奥歯を押さえている。
痛かっただろう、つらかっただろう。
奥歯の痛みに耐えながら樹海を彷徨い、ただひたすらに青デンを目指した先人のために
ぼくはしばしの黙祷を捧げ、再び前へ進むことにした。
歩いただろう。
手持ちの食料も底を尽き、泥水をすすり、虫や蛇を捕まえては食べる。
以前読んだ本の内容が頭から離れない。
傭兵について書かれたその本の中で、実際に傭兵である著者はこう述べている。
「戦場で、傭兵たちが必ず持っていくものがある。
バイブルでもバーボンでもない、戦士たちの必需品。
驚くなかれ、それはカレー粉だ。
食料が尽き、現地で食べるものを捕まえなければいけないとき、
映画のように必ずしもウサギや鳥などが手に入るわけではない。
蛇やカエル、クモや昆虫だって食べなければいけない。
まさに、サバイバルなのだ。
そんな時、どんな肉でも、カレー粉さえあれば、臭みが消せる。
生きるためにどんなものでも喰う。
そのために、傭兵たちにとってカレー粉は無くてはならないパートナーなのだ。」
家を出るときに、そのことさえ覚えていれば。
カレー粉さえ持ってきていれば・・・・。
心の底から後悔し、ぼくはあぶった蛇の肉を死ぬ思いで飲み込んだ。
左の奥歯の痛みに耐えながら。
奥歯の痛みは最高潮に達している。
あと数分だって耐えられない。
眼は虚ろになり、足だけがただ自動的に前に出る。
そして、とうとう青樹が原デンタルクリニック・通称青デンの看板が
樹海の彼方にちらりと見えた。
気が狂いそうになりながら、草をかきわけ進む。
とうとうクリニックのドアの前までたどりつき、表札を見た途端、
ぼくは意識を失ってしまった。
「本日休診」の表札が
ゆらゆらといつまでも揺れていた。
歯の治療中だった。
ドリルでぼくの歯を削りながら、
先生がぼやく。
「最近めっきり患者さんが減ってねえ。
やっぱり世の中、不況なのかなあ。
あ、もう少し大きく口を開けて。」
立地条件の悪さを指摘しようとしたが、
口を開けっ放しではそれも叶わぬ夢だった。
腕は確かで、今まで受けた歯の治療の中でもベスト3に入る最高のものだった。
非常に満足し、会計を済ませたぼくに先生が声をかけた。
「右の奥歯にも虫歯があるし、
また来週も同じ時間に来てください。」
ハッハッハッハッ歯ッ!よかったですねぇ〜。
来週も行かなきゃならないんだけど、帰り道で診察券を落としてきてしまったみたいです。今から探しに行かなきゃ・・・。