Sさんからはいろいろと教えられることが多い。
奥本大三郎がファーブル昆虫記の訳者であることも教えてもらったし、
蛾と蝶の見分け方も教わった。
木や壁に止まって休むとき、羽を広げて止まるのが蛾で、
羽を立てて止まるのが蝶なんだそうだ。
言われてみれば、今まで見た蛾はどれも羽を広げて、壁に張り付くように止まっていた。
何の気なしに蛾と蝶の話を書いていて、ぼくは一匹の蝶のことを思い出す。
かつて出会った、美しく力強い一匹の蝶、
南米の宝石、モルフォ蝶のことを。
ブラジルへ飛ぶ。
2年前の夏、ぼくはブラジルを旅した。
アメリカで乗り換え、リオ・デ・ジャネイロへ向かう飛行機の中で
ぼくはすっかり満足していた。
20数時間もの間、エコノミークラスで窮屈な思いをするのには閉口したが、
なんにせよ、今ぼくは地球の裏側にむかっている。
子供のころ地理で習った地球の真裏に行く日が来るなんて、なんて素晴らしいんだろう。
リオ・デ・ジャネイロまでぼくを運んでくれるテクノロジーに感謝し、
新世紀に生きる実感って奴を噛み締めた。
数日過ごし、エル・サルバドール、別名バイーアという町を訪れた。
ブラジルはたくさんの移民で出来た国で、
ヨーロッパから来た者、日本から入植した者、アフリカから連れてこられた者など
様々なルーツを持つ人々がいる。
ブラジルには大きな街がいくつもあるが、
リオ・デ・ジャネイロには白人系が多く、サンパウロには日系人が多く住む。
緑あふれる太陽の町、バイーアは黒人の町だ。
日系ブラジル人の友達によると
バイーアは海辺の町で、人々は陽気で暖かく、町には常に音楽が流れているという。
そんな話を聞いてぼくは是非ともその町へ行ってみたくなった。
リオ・デ・ジャネイロでチケットを取り、飛行機でバイーアへ飛ぶ。
空港から町の中心地へついた時、店先から流れるレゲエのビートがぼくを出迎えてくれた。
海の近くの安ホテルに宿を定め、荷物を置いて町を歩く。
知らない国や町につくと、体がそこに馴染むまでものすごく緊張する。
肌の色や外見、雰囲気などで、余所者オーラを周囲に発している気がしてしまうのだ。
どこの国でも余所者やガイジン(海外では自分がガイジンだ、当たり前だけど)は
トラブルにあいやすい気がする。
食べ物屋で馬鹿高い料金を吹っかけられたり、ひったくりに狙われたり。
不要なトラブルに会わないように、ぼくは旅先で頑張って現地に溶け込む努力をする。
バイーアの街角で、ぼくは自分に一心不乱に自己暗示をかけていた。
自分は余所者でもガイジンでもない、
サンパウロから遊びに来た日系3世だ、と。
坂を登る。
服屋やスーパー、果物屋に雑貨店。
バイーアのメイン・ストリートをあてどもなく歩く。
街の空気を吸い、人々の交わす会話に耳を傾ける。
そうはいっても、
ぼくはポルトガル語はあまり得意なほうではなく、
どちらかというと苦手で、
より正確にいうとしゃべれないんだけれど....。
体がバイーアに馴染んできそうな予感がし始めたとき、
電気屋の前を通りかかった。
テレビでは新作映画のワン・シーンがやっていて、
高いビルの中ほどから黒煙が立ち昇っている。
そこへジェット機が飛んできて、もう一つのビルに突っ込んだ。
崩れはじめた二つのビルの背景には、信じられないほど青い空が広がっている。
電気屋の店先の何十台ものテレビは、
ジェット機がビルに突っ込むシーンを繰り返し繰り返し映し出している。
やがてぼくは、それがほんの数時間前に現実に起こった出来事であり、
テレビで映し出されているのが新作映画などではなく、
世界中で放送されているリアルタイムの緊急ニュースだということに
やっとのことで気が付いた。