2003-05-14 マドモワセル・バタフライ検

_ 海外で

一人旅をしていると、驚くほど色々なところで日本人の旅行者にあう。

パリやロンドンなどで道の向こうを歩く日本人を見ると、

「またこんなところに日本人がいやがる。

海外に来てまでわざわざ日本人と話したくないよ、無視無視。」

などと思ったりするのだが、

なんのことはない、相手もこっちを横目で見ながらおんなじことを思っている。

_ これが

アテネやローマくらいになると微妙で、

「日本の方ですか、旅行ですかそうですか」とちょっとした挨拶を交わすこともある。

イスタンブールやメキシコシティになると

日本人旅行者同士さらに打ち解けるようになり、

「旅行ですか。どこ行きました?安い宿とかありますか?物価はどうですか?」と

情報交換で盛り上がったりする。

ま、たいていはその場限りの付き合いなんだけど。

_ バイーアでも

そんな感じで、情報交換をした。

本当のことを言うと、こっちが一方的に聞き役であった。

なにしろこっちは来たばかり、しかもすぐにでも帰らなきゃいけない身なのに、

むこうは6週間もブラジル全土を一人で旅している、大先輩だ。

_ 話を聞けば聞くほど

彼女の行動力というかバイタリティに驚かされた。

なんでも日本の大学のポルトガル語学科に席をおきながら、

サンパウロに1年間ホームステイをした後、それに飽き足らず6週間の旅に出た。

バックパック一つでブラジルのあちこちへ行くという。

イグアスの滝やアマゾンの奥地、チリやアルゼンチンにも足を伸ばしたのだそうだ。

_ 「でもね、

ブラジルにいるのも9月いっぱいなんだ。」

彼女がそう言った。

「10月1日に成田に着いたら、その足で大学の新学期のクラスに出席しないと。」

テロの影響も、その頃には落ち着いてるんじゃないの、とも言う。

日本に帰ったら、何したいの、と聞いてみた。

なにしろ1年以上、地球の裏側にいたのだ。

_ 「帰ったらね、

シュウカツしないと。」

シュウカツ?

「就職活動。」

就職活動。

その言葉を聞いて、再び軽い驚きを覚える。

_ 長期旅行者の中には

長旅によって自分が何者かに生まれ変わった気がして(多くの場合それは錯覚なのだが)、

帰国後うまく日常に適応できない者がいる。

フリーターをして再び旅に出て、いつしかどこかへ埋もれてしまう者もいる。

極端に無気力になり、何をするでもなく日々を過ごし、

旅の思い出を人に語ることだけが生きる目的になってしまう者もいる。

そうした人々に比べ、彼女はとても健康で真っ当に思えた。

一年間のブラジル生活を終え、ひらりとまた日常に復帰する。

ぼくは、バックパック一つで南米を飛び回る彼女のバイタリティに打たれ、

気負わない軽やかさに打たれた。

_ 「それじゃそろそろ行くね。」

グラスに残ったビールを飲み干し、彼女は言った。

「夜中に、ブラジリア行きのバスが出るんだ。」

そう言って立ち上がると、

くるりと後ろを向いて、颯爽とその場を立ち去りかけた。

_ 海風が吹き、

彼女のポニー・テイルが揺れた。

日に焼けた背中に、ブルーの何かがちらりと見えた。

ぼくが背中の何かに気づいたのを見て、彼女が言った。

「これ?モルフォ蝶のタトゥー。

カッコいいでしょ。サンパウロで入れたんだ。」

_ そうだ、

名前教えてよ、間抜けた声でぼくが言う。

彼女が振り向く。

「名前?秘密。

どうでもいいじゃん、イチゴイチエで行こうぜ。」

イタズラっぽくそう言うと、彼女はフェスタの人込みに消えていった。

_ なんというかまあ、

風のようだ。

一人取り残されて、すっかりぬるくなった残りのビールを嘗める。

颯爽としていて、生き生きとして、軽やかで。

力強く、鮮やかで、たくましくて。

なんと形容したものだろうか、まったく。

そう思いながら、ビールを飲み干そうとすると、遠くから彼女の声がした。

「さよなら、良い旅を!!」

確かにそう聞こえた、気がする。

_ それから翌日、

ぼくは電話をかけて、予定のコンチネンタル航空が飛びそうもないことを知った。

バイーアの町の片隅にある怪しいチケット屋に行って、辞書を片手に半日かけて交渉し、

サンパウロ経由アムステルダム経由ロンドン行きのチケットを確保した。

ロンドンでは入国審査で疑いに満ちた質問を山ほど浴び、なんとかイギリスに入国した。

チューブでロンドンの端の町に行き、パキスタン人の経営しているチケット屋で

シンガポール経由台北経由成田行きのチケットを手に入れ

3日がかりで帰国した。

_ 成田空港には

アムステルダム空港でテロの犠牲者に捧げられた黙祷も、

ヒースロー空港でテロリストではないかと投げかけられた疑いの目もなく、

ただ係りの人の笑顔と「おかえりなさい、大変でしたね」という言葉だけが

ぼくに与えられた全てだった。

_ これで

ぼくと彼女の話はおしまい。

血湧き肉踊るアドベンチャーもなければ、ラブロマンスもない。

残念ながら現実はハリウッド映画じゃないし、フランス映画でもない。

ただ単に、ブラジルで出会ってビールを飲んでちょっとの間会話した、

たったそれだけのこと。

_ 毎日の生活の中で

旅の記憶は薄れていき、会話の内容や町の光景も少しづつ忘れていく。

その中で、彼女の背中のモルフォ蝶だけはいつまでも鮮明で、

日ごとに青さを増していく。

_ ぼくは、

満員電車や街の雑踏にまみれ、

不機嫌で無表情な人びとに押しつぶされそうになるたびに、

目を閉じ、ある想像をする。

彼女の背中のモルフォ蝶がビジネス・スーツの下に隠れて、

都会のビルの谷間を軽やかに力強く、

誰にも気づかれずに飛んでいる、そんな光景を。

_ あの青いモルフォ蝶は

今ではどこを飛んでいるんだろうか。