いつの間にかぼくはバスに乗って隣町に向かっていた。
シートに腰掛け、窓の外を流れる景色を見ているうちについうとうととして、
目を醒ました時にはいったいどれだけの時間が経ったのか、
自分がどこを走っているのかもわからなかった。
一番後ろの座席のぼく以外客は乗っておらず、
濃紺の制服を着た運転手はただ無言でハンドルを握っている。
窓の外の曇り空はなんとも気味の悪い、灰色とオレンジ色を混ぜあわせたような暗い色で、
次第に暗くなっていくその様子は、逢魔が時、なんて古い言葉を思い起こさせた。
だんだんと車内は暗くなっていく。
車内に灯りが点る気配はなく、
ただ降りる際に押すボタンの赤紫色のランプと
運転手の白い手袋だけがぼんやりと闇の中に浮かびあがっていた。
数日前から続く原因不明の微熱のせいで、ぼくの頭はぼうっとしていて、
一番後ろの席でじっと座って前だけを見ていた。
なにしろぼくには、
バスを降りる理由がなかったのだ。
岩ばかりの荒野を走っているようだった。
月明かりに照らされたその大地には、ほとんど動くものは無く、
時折枯れかかった細く低い木が道端に生えているくらいで、
この世の色というものは、死に絶えてしまったかのようだった。
いつの間にか、やせこけた無表情な男が座っており、虚空にむかって独り、話をしていた。
「収容所から逃げて、国境を越えた。
死に物狂いで隣の国までたどりついて、始めは大喜びだったよ。
なにしろいくらでも食べ物はあるし、密告を恐れることもない。
そしてその国で働き始めたはいいが、何もかもが母国とは違った。
ルール、慣習、激しい競争…。
うまく適合できない自分が嫌で、気が付くと酒に溺れていた。
仕事は失う、国からの援助は打ち切られる。
家族はみんな置いて来ちまって、信頼できる友人もいない。
母国に帰りたいとは死んでも思わないけれど、
毎日おれが思っていることがある。
それは、
地上の楽園なんてどこもないが、
地上の地獄ならどこにでもあるってことさ。」
男の話を聞いているうちに、頭が朦朧としてきた。
再び頭がはっきりした時、バスは高い山を登っているようだった。
頭ががんがんしてきて、ぼくは自分が高山病にかかりかけているのがわかった。
やせこけた男はもう居なかったが、そんなことよりも自分の頭の痛さのほうが問題だった。
高地特有の真っ青な空で、
あんまり青さが深いせいでぼくは自分の目が失明したのかと勘違いしたほどだ。
ごとごとと岩だらけの道をバスは行く。
運転手は表情を少しも変えずに、ただまっすぐ前を見て運転を続ける。
全身黒い服を着た老婆たちが乗ってきた。
無数の深いシワが老婆たちの顔に刻まれている。
いったい彼女たちはいくつぐらいなんだろうか。
老婆たちを見るとも無く見ているぼくに気づき、老婆の一人が口を開いた。
ずっとここで暮らしてきた。
余所者があたしたちの村にはじめて入って来た日のことを覚えている。
海の向こうからやって来た、白い肌の男たちで、金を欲しがって欲しがってね。
侵略者たちは、次第にその本性を現して、やりたい放題だったよ。
しまいには、あたしたちの皇帝を捕らえて閉じ込めちまった。
この部屋を一杯にするだけの金を持ってくれば解放してやる、なんて言ったくせに、
結局はだましてあたしたちの皇帝を殺しちまった。
その日から、あたしたちはこうして黒い服しか着ない。
あたしたちはこうして黒い服を着て、
いつ明けるかわからない、永遠の喪に服しているのさ。」
幾ばくかの時間が流れ、バスは超高層ビルの間を走る。
黄色いキャブが路上を埋めつくし、あちこちでクラクションと怒号が聞こえる。
一部の隙も無い高級スーツ姿のビジネスマン達が、忙しそうに往来する。
と、一人の白人男性がバスに乗ってきた。
一瞬でも隙を見せたら負けなんです。
この世界は勝者と敗者しかいない。
そして勝者が賭け金の全てを取るのがルールです。
勝つことは善で、負けることは悪です。
だから勝つことが一番大事で、そのためにはどんな手を使っても許される。
ビジネスパートナーと会って、右手で握手をする時には、左手も握っておきなさい。
そうしておけばいつでもその左手で相手の顔をぶん殴って、
相手の取り分まであなたのものにすることが出来ますよ。
いいですか、勝つことが全て、そのためには何をしても許されるのです。
そしてね、生きている限り、決して安心しちゃいけません。
何故なら、あなたのまわりの人間も、あなたと笑顔で握手する時には、
左手で握りこぶしを作っているかも知れないのだから。」
奴らの仲間のうち何人か、何十人かは犠牲になるだろうな。
犠牲になる奴らの親兄弟や友人は、絶対に俺を許さないだろう。
どんな手を使っても、俺を殺しに来るだろうよ。
そして奴らの戦車に轢かれて、俺は死んじまうのさ。
そしたら俺の弟たちが、また奴らに復讐してくれる。
なにも言うんじゃねえ、わかってるさ。
だけどな、ここには出口なんてものはないんだ。
どこかのお偉いさんが、クーラーの効いた部屋でコーヒーと葉巻を楽しみながら
でっちあげた<解決への道のり>なんて、なんの役にも立たねえんだよ。」
眼を醒ますと、バスは見慣れた風景の中を走っていた。
あたりはすっかり真っ暗だったが、あちこちで人工の光が夜を照らしていた。
コンビニやファミレスの原色の看板、
マイクの形をして点滅する、カラオケの馬鹿げたネオンサインでさえも、
ぼくを心底ほっとさせた。
ぼくの横に一人のなんだかくたびれた感じの中年男が座っているのに気が付いた。
長年勤めていた仕事を辞めさせられましてね。
その前も、毎年毎年給料が下がっていたし、そろそろかな、とは思っていたんです。
職場に色んな機械が入って来て、その代わりどんどん人員が減らされていくんです。
売り上げが同じなら、経費を削る、そうやって会社は利益を出そうとするんですな。
経費の中で一番大きいものは人件費ですから、
利益を増やすためには人件費が少なければ少ないほどいいんです。
要するに、経済が発展するためには人件費が減れば減るほどいい、
もっと言えば、市場経済にとって一番の邪魔になるのは、人間なんですよ。」
中年男はそう言うと、やっぱりふっと車内から姿を消した。
バスの運転手はまっすぐ前だけを見て運転を続ける。
ぼくは一番後ろの席に座りながら、
このバスはどこへ向かっているのかだけを
ただぼんやりと考えていた。