なんてデカい声がどこかから聞こえてくると、
ぼくは恥ずかしさで居ても立ってもいられなくなる。
そんな無神経な言葉の後に続くものは、
端にも棒にも引っかからないような本人以外にはどうでもいいような自慢話か
どこかで聞いたような話の受け売りばっかりだ。
新聞で読んだのかテレビで見たのかしらないが、
世間受けのいいように極度に単純戯画化した受け売り話を
持論と称してえらそうに語る人の顔を見てみるとよい。
自分の話に自分で酔ってしまい、下手すりゃ焦点も合っていないくらいだ。
まさに厚顔無恥。
ひとの失敗や過ちを非難している人たちの
我こそ正義でございます、とでも言わんばかりのあの面ときたらどうだろう。
自分の失敗を心から悔いているであろう者にむかって、
なんだかんだと責め立てる。
そんな自分は、それほど上等なものなのかと逆に訊いてやりたくなる。
過ちは過ちで正せばいいだろう、それ以上に何を言う必要がある。
人を非難して糾弾して責め立てるうちに
だんだんと自分が何者かになった気がしてきてしまうんだろうな。
正義って奴に名を借りて、自己陶酔している奴らの顔ときたら!
自省も自制も辞書にない、大喜びのサディストたち。
えらそうにものが言えるようになるのだろう。
彼ら自身は完璧で、人を責めるだけの資格がある、完全無欠の存在なのだろうか。
いや決してそうではない、
正義者面して人を非難する連中の多くも、いい加減で自己中心的で
失敗や過ちを繰り返す、ごく当たり前の人間に過ぎない。
自分自身も欠陥を持つ、当たり前の人間が
あんなにえらそうに他人を責めることが出来るんだろうか。
普通だったら、
「俺にも悪い点があるし、あんまり人のことは言えないな」なんて
思いそうなものだが。
過ちを犯したとする。
それを見た自分もいつか同じ過ちをするかも知れない、
そう考えると、自分には他人を責める資格がないように思える。
そんなとき、自分の心を広く使う必要がある。
そんなとき、心に棚をつくる。
要するに、
同じ失敗をするかも知れない自分はひとまず、
置け。